ありのまーま合同会社
時間を置いて振り返るうちに、私なりのアヤワスカに対する考えも少しずつまとまってきました。
私にとってアヤワスカは、答えを教えてくれる存在ではありませんでした。
記憶、過去の体験、身体感覚、恐怖、愛情、トラウマ、パーソナリティー。
自分の中にすでにあるさまざまなものと、普段とは違う強さで接続し、感情だけでなく身体を含めた多くの感覚を刺激する。
恐怖、しびれ、苦しさ、愛、美しさ、安心…
何と接続するのかは、その人や、そのときの状態によって違うのだと思います。
そして、そこで起きたこと自体が「答え」なのではありません。
その体験を自分の記憶や人生と結びつけ、「自分にとってこれは何だったのか」と考える。
その「プロセス」で初めて、自分にとっての意味やメッセージが生まれるのではないか。
今の私はそう考えています。
感覚として近いのは、ジョハリの窓でいう「未知の窓」です。
自分でもまだ知らない自分を、かなり強引に覗きにいく。
あるいは、自分という巨大な書庫の、普段は暗くて見えない棚に突然強い光を当てられるようなものかもしれません。
アヤワスカは、
「この本を読みなさい」
「この意味はこうです」
とは教えてくれない。
ただ、ある棚を突然、しかも時には劇的で攻撃的に感じるほど強く照らす。
そこに何があるのかを見て、どう理解するかは自分自身です。
だから私は、アヤワスカを答えを求めて頼ったり、すがったりするものではないと思っています。
1回目では、月と星の美しさに圧倒されました。
2回目では、何度も死ぬと思うほどの身体感覚を経験し、そのあとに人や自然への愛情を感じました。
ブッフォでは、自分ではどうすることもできないほど強烈な死と生、身体と意識の限界を経験しました。
そして最後のアヤワスカでは、大きなことはほとんど起こりませんでした。
だからこそ最後に残ったのが、
「期待しても、それに執着しなくていい」
という感覚でした。
人間なので、期待はします。
何か起きてほしい。
何か知りたい。
でも、それが起きなかったときに、
「失敗だった」
と決めなくてもいい。
期待してもいい。
ただ、それに執着しない。
「それでよい。」
穏やかに手放すことができた。
これは今回の経験から得た、一つの考えです。
そしてもう一つ、今も残っているものがあります。
月と星。
乾いた草を踏む音。
風。
太陽。
激しい夕立と冷たい空気。
人の笑顔。
この土地で感じたものを振り返ると、私が強く受け取っていたのは、意外にもとても単純なものでした。
美しいものを、美しいと感じる。
心地いいものを、心地いいと感じる。
愛おしいものを、愛おしいと感じる。
そこに無理に意味を加えなくてもいい。
与えられた美しさをそのまま受け取ると、そこから自然に感謝が生まれる。
それが、今の私がこの4日間から持ち帰っているものです。

今回のリトリートで感じた愛情の多くは、自分自身に向けたものではありませんでした。
一緒に過ごした人たちや、この土地、風、空、植物や動物。
この体験をつくってくれたものへの愛情や感謝の方が、ずっと大きかったと思います。
でも、すべてが終わった今、自分のことも少しだけ褒めてあげたいと思います。
二年前、最初のアヤワスカでは、後にトラウマとして残るほど辛い体験をしました。
それでも私は今回、もう一度マザー・アヤワスカと向き合うことを選びました。
怖くなかったからではありません。
怖さが残っていることを知ったうえで、もう一度自分自身と向き合ってみようと思った。
それは、自分なりの勇気だったと思います。
そして今回、2回目のセレモニーでは、何度も「死ぬかもしれない」と感じるほど強烈な体験をしました。
普通なら、そこで「もう十分」と終わってもおかしくなかったと思います。
それでも翌朝、当初は見学するつもりだったブッフォを、自分で考えた末に体験すると決めました。
結果として、それはアヤワスカ以上に強烈な体験になりました。
今振り返っても、何でも怖がらずに挑戦すればいいとは思いません。
強い体験を求め続けることが、勇気だとも思いません。
ただ、怖さを知ったうえで、それでも自分で考えて「もう一度向き合ってみよう」「やってみよう」と決めた自分の勇気と挑戦心については、少しくらい褒めてあげてもいい。
そう思っています

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