3回目、最後のアヤワスカ 

「もう十分」から始まる

午前中のブッフォのあと、午後1時半頃から最後のアヤワスカが始まりました。

この時点では正直、

「もう十分」

という気持ちがかなりありました。

一杯目では何も起こらず、横になってファシリテーターの歌や風の音を聞いていました。

二杯目のあとには少し歩きました。

何かを起こすためというより、

この土地を最後にもう一度覚えておきたい

という気持ちでした。


最後だから、少し期待した

体の力が抜け、意識がふっと揺れ、しびれるような感覚を感じます。

呼吸を合わせ、「何か」が来るのかをじっと待ちます。

吐くと、身体感覚はさらに強くなりました。

手足がしびれ、身体をよじりたくなる。

「何か」が私を覆いますが、2回目のような恐怖はありません。

一方で、

「最後だから、何かメッセージを受け取れるかもしれない」

という期待はありました。

一瞬だけいくつかのビジョンが浮かびました。

「獣、、、?古代エジプト神…?」

同時に、遠くから聞こえる牛の鐘の音もリンクします。

「心地がいい、ずっとこの場所に居たい。」

そんな思いにふけってはいたものの、圧倒的な感情も身体経験も、その先には来ませんでした。

そして私は、少しずつ「待つこと」をやめました。


体験を「成果」で測らなくなった

横になって、シャーマンの歌を聞く。

風を感じる。

乾いた土地の匂いや、周囲の自然を感じる。

それだけでよくなりました。

そこで、到着した日の面談で聞いた言葉を思い出しました。

「すべてはプロセスです」

最初に聞いたときは、「焦らなくていい」という意味だと思っていました。

でも3回目になって、少し違う意味でも理解できるようになりました。

私はどこかで、体験にも「成果」を求めていたのだと思います。

強烈なビジョンを見た。

深い気づきを得た。

死を感じた。

愛を感じた。

そういう分かりやすい出来事があれば、「意味のあるセレモニーだった」と思いやすい。

でも、本当にそうなのだろうか。

何かを得ようとするほど、目の前で起きていることより、「まだ起きていない何か」に意識が向いてしまう。

それはアヤワスカに限らず、普段の生活でも同じなのかもしれません。

もっと成長したい。

もっと特別な経験がしたい。

もっと何かを理解したい。

「次」を求め続けていると、すでに十分なものを受け取っていても、それに気づけないことがあります。


「もう十分だ」と思えたこと

振り返れば、私はすでにたくさんのものを経験していました。

1回目には、今にも落ちてきそうなほど白く輝く月と星を見た。

2回目には、何度も死ぬと思うほど強烈な身体感覚を経験し、そのあとに人や自然への愛情が広がった。

その日の午前には、ブッフォで、死と生を身体ごと経験するような時間もありました。

それでも私は最後に、

「もう一つ何かあるかもしれない」

と待っていた。

それに気づいたとき、初めて自然に、

「もう十分だ」

と思いました。

諦めたという感じではありません。

むしろ、これ以上を求めるのではなく、

ここまでに起きたことを静かに受け止められたという感覚でした。

何かをもう一つ持ち帰る必要はない。

ここまでに起きたことを、そのまま持ち帰ればいい。

そう思うと、最後のセレモニーは静かに終わっていきました。


何も起きない時間にも、意味はある

3回の中で、最も大きな出来事が少なかったのが3回目でした。

でも、今振り返ると、この静かな終わり方でよかったと思っています。

もし最後にもう一度、圧倒的な体験が起きていたら、私はさらにその先を求めていたかもしれません。

3回目に私が持ち帰ったのは、新しいビジョンでも、新しい答えでもありませんでした。

「十分なところで、十分だと気づくこと」

でした。

私たちはつい、強烈だったもの、結果が出たもの、人生を変えたものだけを「価値のある経験」として数えたくなります。

でも、何も起きないこと。

期待したものが来ないこと。

そして、それでも失望せず、今あるものに戻ってこられること。

それも一つの経験なのだと思います。

期待してもいい。
でも、期待に執着しなくていい。

この言葉は、アヤワスカだけではなく、日常に戻ったあとも私の中に残っています。

今回の3回の中で一番静かだったセレモニーが、結果として、私にとって一番自然なクロージングになりました。

最後の晩餐は塩とスパイスの効いたカレー。
5日ぶりに塩味を感じて最高においしかった、、、


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